2011年11月23日水曜日

境界線

レモンの飴で舌が荒れたのを覚えている

席には座れたが日射しでもう十分あたたかいのに暖房まで効いていて
その上あの感触とあの匂いなのだから乗り物酔いする僕には窓の外に
目を移して誤魔化すしかない

ちょうどスキーのジャンプ競技のような姿勢でレールの上を疾走するキャラクターを
想像してゲームのようなことを考えたり、田んぼの横を通る車や
踏切で片足をついて俯いている自転車の人を目で追ったりもした

電車が行き過ぎれば踏切は開かれ、待たされた人たちは我先に渡ってゆく

そこにはたった今通り過ぎた大勢の人たちの痕跡はない


もう二十年近く前

病院へ父親の見舞いに出かけた日曜日のこと


想いが残っている




数えきれない眼差しがこの路を通り過ぎたんだ

その数

早送りでも見切れない


三年前の11月


鎌倉へ向かう車中、湘南の砂浜をぼんやり眺めながら
窓越しに聞く黒い波はまるで温度を忘れているようだ

夏の群がり様はテレビで知っているが
シーズンオフともなれば、さながら琵琶湖畔のようで妙に親近感が湧く

何とも言えないこの空虚感は何だろう
放課後の教室を後ろのドアから眺めているような
木と雑巾の匂いがほんわかと漂って
活気があったであろうほど、温かかったほど冷え込んで映る

ものすごい温度差

そこを行き交った人の眼差し

そこには思いが残っている

ギターと後部座席に居座って数時間、運転していただいて鎌倉に着いた

百年前にこの路を通った人たち

五十年前

どんどん積み重ねられてゆく

そして僕が重ねた想いの上を通り過ぎてゆく人たち

五十年後

百年後

恐らくその路を通り過ぎる人たちは誰も僕の事なんて知らない
だけど僕のようにちょっと変わった凡人が一人でもいてくれたなら
どんな人のどんな想いが通っていったのか、想いを馳せるかもしれない

何かを残したいし
何かを受け取っていきたい

通り過ぎていった人と自分のために

そしてそれが、これから通り過ぎる人に繋がるのだと信じている

2011年11月6日日曜日

守るということ

例えば戦場ならば向かってくる敵から身を守るということ


大切なものを敵から守るということ

守り続けるために自分を守ること

そのためにはどうすればよいか


何らかの方法で敵が攻撃してこないようにするか

何らかのかたちで敵の攻撃から逃げるか

それが難しい場合は自分が盾となり例え僅かな時間になっても対象を守るのであろう


物理的に守るということは外敵もしくは、守る対象に危害を加える何かから
体をはって防御または攻撃をすることなのだと思う


しかし、対象を人間その他動物とした場合、守るべきは体だけなのだろうか



そう考えた時、逆に自分はどう守ってもらいたいかを考えた

自分はどうされたら守られていると感じるのだろうか


考えついた先は心だった

心を穏やかに安心で包んでもらう、ということだった


では、心を守るということはどういうことか


この国に限定しても一人ひとりが抱えているものはそれぞれ違うだろう

心の安定を邪魔するものから守るためにできることもそれぞれ違う


自分にできることとは何か

どうすれば守れるのか

どうすれば守り続けられるのか

そもそも守りたい心とは何なのか

僕の中で削ぎ落していって最後に残ったものは


心とは、大切なものの意志や願い


ならば、どうすれば大切なものの意志や願いを守れるのだろうか

自分に何ができるのか

先の例えのようにここが戦場ならば、大切なものから肌身離れず敵に眼を光らせて

いることかもしれないが、意志や願いを守るためには自分がそばにいることが邪魔になることもあるだろう


何もしないことが守ることに繋がることもあり得る


そして大切な心を守り続けるためには自分の心を守り続けなければいけない

大切な人を守ることとは自分を守ること


自分を守ることが大切な人を守ることになるのではないか


守るということは自分をみつめること、なのだろうか


ほんの少し見えてきた気がする