2018年7月17日火曜日

わすれ方。



猛暑の土曜日


心斎橋のレッスンの空き時間


いつもは「憩いのベランダ」と言われている場所も


もはや太陽へ生贄を捧げる場所と化していた


耳をすませば

身体中の小さな細胞の一つ一つがプクプクと音を立てて

沸騰しているのが聞こえてきそうだ


体がよじれる位に暑かったのだが


ふと


南側の百貨店に目をやると大きなクレーンが目に入った






クレーンの先の部分は運転室のようにも見えるが

人は乗っているのだろうか?


だとしたら


相当暑いだろうな


クーラー


はないだろうな


扇風機はあるのかな



さて


世間は三連休の最終日。


少しでも暑くなる前に





朝イチでジムへ向かう


そして


少しでも日陰になるところへ車を停める


比較的人が少ない祝日午前中にトレーニングをした後は

僕がジムへ行く目的の半分に値する、お楽しみのお風呂である。


でも

今日ちょっと不思議だったのが、この暑い中で熱めの湯船に浸かることは

思ってたほど嫌なものではなくて、むしろほっこりした。


暑い時こそ熱いお茶

というのはよく聞くけれど、外から帰ったら

まず冷蔵庫でキンキンに冷えた麦茶をグラス一杯

一気に飲み干したいと思う。


だけれど

たまたま冷やされてなくて、沸かされたばかりのアツアツしかない場合


全く乗り気にはならないけれど、それでも喉が乾いているので

そのアツアツを飲んでみると


妙に落ち着く


あれと同じ感覚のお風呂を後にして駐車場に戻ると


時間が経ち

太陽が移動して良い感じに僕の車は生贄に。


かんかん照り


恐る恐る車に乗り込んだ瞬間



溶けるかと思った



そして


ふと



あのクレーンを思い出した。



命からがら家に帰って(運転は10分が限界)めずらしくテレビをつけると


西日本豪雨の続報



今や、ボランティアが沢山入られているそうだが

この暑さで熱中症になってしまったり厳しい状況という事だった。



大切な人や物、居場所、住み慣れた地域


失ってしまった取り返しのつかないもの


体と心に残った深い傷痕


そこから滲み出てくる鋭い棘はどこへ向けれらるわけもなく

不意に自分を傷つけてしまったりする。


人は辛い過去、そしてあの時こうしていれば、、、というような後悔

それらをどうやって乗り越えて行くのか。


今回の豪雨の被害とは比較にならないほど小さいかもしれないけれど

僕にだって思い出したくない、苦い記憶というような事はある。


きっと誰にだって多少はそんな記憶があるのではないか


でも


なぜか思い出してしまう瞬間がある


その度に時間が一気に逆戻りして、自己嫌悪に陥ったり

どうしてあの時あんな事言ったんだろうと恥ずかしくなったりする。


ではどうやって忘れたらいいのだろうか?


気にしない気にしないと思っていても、ふと湧いてくる過去。



例えば


悪性の腫瘍ができたらその部位を含め、広めの範囲で切除する。


ならば


記憶も同じように広い範囲で忘れるよう努力したら

うまくいくのだろうか


その時の住んでいた場所

その時の友達

その時の車

その時の時間

その時の季節

その時の服装

その時の好きだった音楽


思い出したくない記憶が連想されるものたち

でも

どんどん範囲が広くなるし、範囲にキリがない

掃除をすればするほど、小さなホコリひとつが気になるように。



そうしたら結局何も残らなくなる気がする。



自分を否定しない限り難しいのではないか



そしてそれは不可能だ。


ならば


「忘れる」


ということを自分なりにきっぱり諦める事で


「記憶」


というものとの向き合い方を整えていく道筋が出来るのではないか



忘れてしまいたい事ほど、ちょっと長い道のりになっても

その記憶とちゃんと向き合って道に迷いながらでも歩いていくことで

いつか新しい大地へ連れていってくれる



そう信じて歩いていくことが



本当の意味での「忘れる」ということなのではないか。


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